ジュウガツザクラ【十月桜】
バラ科サクラ属
桜は春にだけ咲くわけではありません。今日は秋に咲く桜の一種を紹介します。
十月桜の花は白~淡紅色の八重咲きで、その名の通り、10月頃から咲き始め、冬の間も少しずつ咲き続け、春にはたくさん開花します。
マメザクラとエドヒガンの交雑種と考えられている栽培品種で、江戸時代後期から栽培されてきました。
もちろん、彼の進もうとする道は決して平たんではありません。今でこそ中央大学附属高校は、条件付きながら外部受験を勧める進学校の色合いも見せていますが、当時は、中央大学へのパスポートを手に入れて高校生活をエンジョイする空気。まさに孤軍奮闘の彼は、時折、開成高校から東京大学を目指す仲間と連絡を取り合って士気を高めていたようです。
やがて3年が過ぎ、高校受験のリベンジとなる早稲田・慶應に目標を定めた彼の3度目の受験の季節が訪れます。ところが、深い決意も真摯な努力も虚しく、またしても彼の受験は失敗に終わったのです。開成・桜蔭の友人が、それぞれ東京大学の文科1類・理科2類へと無事進学を果たす一方で、中央大学進学の権利も失い、大学受験に失敗した彼は、その後1年間の浪人生活に突入します。
瞬く間に過ぎる1年。次なる彼の目標は、現役時代に準備が間に合わず諦めた国立大学、そして3度目の挑戦となる早稲田・慶應です。
浪人生として挑んだ彼の大学受験。結果はどうであったかというと、国立大学・早稲田大学・慶應大学と、目標の大学の受験に失敗し、辛うじて東京理科大学の合格を手に入れて幕を閉じます。今でこそ、早慶上理などと言われますが、当時の東京理科大学の評価は決して高くはありません。その、新設間もない経済学部に、彼は進学することになります。
大学受験が終わって間もないころでした。彼が、一人でぼくを訪ねてきます。
「大学生活を有意義に過ごす心得を教えてください。」
我が身を振り返ってみると、4年間、教員免許を取得するという目的以外のすべての時間と体力を体育会系の部活動に注いだぼくに、偉そうに語れる大学生活の心得などありませんでした。そこで、アドバイスとしてではなく、ひとつのアイデアとして、ぼくは彼にこう伝えました。
「これは、と思った教授に付きまとうというのはどうかな。その教授の講義はすべて受講する。そして、時間外にも質問をしたり、相談を持ちかけたりして、特別なパイプを作れば、そこから、普通に過ごしていたら得られない何かが得られるかもしれない。」
驚いたことに、彼はそのアイデアを忠実に実行したのです。ターゲットは、経済学の最先端の研究に従事する一人の準教授でした。まるで足踏みするようだった彼の人生が、そこから大きく動き始めます。長すぎた助走は大きな飛翔を約束するとでもいうように、やがて彼は力強い翼を手に入れていきます。
―つづく
10月4日は「中秋の名月」。皆様はご覧になれたでしょうか?
「中秋の名月、十年のうち九年は見えず」とも言われ、秋の長雨や台風の影響で中々顔を出してくれないことが多く、やはり今年も雲が中々とれず、夜遅くになってようやく顔を出してくれました。
中秋の名月は、旧暦8月15日から16日の夜に見られる月を指します。旧暦では7月~9月を「秋」とします。この季節の細分によれば、「8月」は秋の真ん中で「中秋」となります。旧暦の暦月の日数は29日か30日のいずれかですから、15日は暦月の真ん中の日と考えることが出来ます。旧暦の8月15日という日は、秋の真ん中の月の真ん中の日、つまり秋全体の真ん中の日と考えられますから、この日のことを指して「中秋」と言うこともあります。
旧暦は太陰暦の一種ですから日付は空の月の満ち欠けの具合によく対応します。月の半ばである15日の夜の月は必ず満月か満月に近い丸い月が見えることから、「十五夜の月」 = 「満月」と考えられるようになりました。中秋の日(旧暦8月15日)の夜の月も、当然満月かそれに近い月です。中秋の日の夜に澄んだ秋空に昇るこの丸い月は、やがて中秋の名月と呼ばれるようになり、これを観賞する風習が生まれました。
また、秋は収穫の時期でもありましたのでその年の収穫物を月に供える風習が各地に残っています。「芋名月」などの呼び名はここから生まれたものだと考えられます。現在、月見団子を供えるのは、芋を供えた風習の変形だと考えられています。
最後に、中秋の名月が見られる日は必ず「仏滅」です。それ故、中秋の名月の別名は「仏滅名月」といいます。「大安」「赤口」「先勝」「友引」「先負」「仏滅」は「六曜」とよばれ、この六曜は、(月+日)÷6の計算結果のあまりで決定できます(あまりが0ならば「大安」、あまりが5ならば、仏滅といった具合になります)。
中秋の名月は8月15日。したがって、(8+15)÷6=3…5.あまりが5なので、必ず「仏滅」となります。
以上、「中秋の名月」の豆知識色々でした。